2008秋の探検OFF その1 まずはウォーミングアップ
稲童掩体壕群

■到着■

朝5時半に熊本市を出発。
僕の操るホンダトゥデイは一路行橋方面(正確には築上郡築上町)を目指す。

も、

どうしても眠くなり、大分県日田市のコンビに駐車場にてちょっと仮眠。

おかげで20分遅刻した。

しかもあわてていたために、曲がるところを間違えて、
一直線に航空自衛隊築城基地に突入しそうになる。
ぜったいにこんなとこでは待ち合わせしない。
自衛隊制服を身にまとった守衛の方々の視線が痛い。

すみませ〜ん…Uターン。



待ち合わせ場所にはすでに2人とも来ていた。

さて、ここからはチョメ隊長に任せよう。


■稲童掩体壕群とは■

掩体壕については「古い物見に行くツアー」で触れているのでそちら参照

第二次大戦中、ここ築城には海軍の飛行場が造られた。昭和17年のこと。
その際、やはりここにも掩体壕が多く造られた。

掩体壕群は、築城飛行場からやや離れた稲童地区に多く造られ、
航空機はそこから誘導路によって滑走路に向かったのであろう。


終戦直後(昭和22年の築城飛行場)

現在築城飛行場は、先ほど私が突入しかけた「航空自衛隊築城基地」となっている。
毎年秋には航空祭が開かれており、ブルーインパルスの展示飛行もある。
この探検の2週間後だった。オタとしては非常に残念。


現在の築城基地(滑走路が海まで伸びているのに注目)

しかし基地の航空写真のせていいのかなあ。国防上問題ないだろうか…
まあ、ネットで拾えちゃうくらいだから、あるわけ無いんだがw



ちなみに築城基地は築城町だが、稲童は行橋市だ。ややこしい。


■さて巡ろう■

さて、この稲童掩体壕群。チョメ氏が過去も探索しており造詣が深い。

ということで氏を先頭に移動。


現在は住宅地が広がっている。
戦時中は軍関係者の宿舎や待機所があったのだろう。

しばらく進むと、住宅地が開けてなにか見えてきた。


これ、壕が山みたいになってしまったのか、もともと山だったのか。



稲童1号掩体壕

うーん、でかい。大型航空機用だな。

ちなみに手前は広くなっているが、立ち入り禁止の札が立っている。



案内看板もずいぶん手前のほうにある。

ここに格納されていた航空機は…



ふむふむ。銀河に九六式陸攻に一式陸攻。やっぱでかいモノ専用だったんだな。
あ、ちなみに「陸攻」は「陸上攻撃機」の略ね。
戦闘機と違って複数人が搭乗して、爆撃や雷撃(魚雷攻撃)を行うタイプ。
このサイズの航空機なら通常エンジンが二発(二機)。試験に出るよ。

そんなオタク野郎に釘をさすように案内看板には
この基地からも特攻機が飛び立ったことを記されている。
今日、我々がこんな呑気なことやってるのも彼らのおかげだ。


さて、なかなか広い稲童地区。一番小さい僕の車に3人乗車し巡回。
チョメ氏に促されるままに、今度は狭い路地に入ってきた。



地下通信指令部壕?

ここには地下に基地があったらしい。基地といっても解説図では数部屋分くらいだが。
こんな遺構が残っているのもすごい。



敷地内にはなにやらコンクリート製の構造物が。



回り込んでみると、これが地下に通ずる階段の入り口だった。
地下鉄の駅の入り口を想像していただければ分かりやすいか。
九州は福岡にしかないけど。

こんなものがあったら絶対に子供たちが度胸試しに入るに決まってるんで
現在は網で覆われている。

網の隙間から覗いてみる。



度胸試し断念してみんなに笑われてもいい。入りたくない。



司令部は基地の両方から入れたようで、少し離れた場所にも
写真のように入り口があった。
ってか、2つの入り口の間、民家の敷地なんすけど…
庭の下は秘密基地…




さて、狭いクルマを我慢して走ってきたのがここ。
これはもうホントにただの山だろ林だろって思っていたが、
チョメ氏が言うにはここにもあるらしい。


ちなみに両サイドの枠だけ築造して、上部は木の葉っぱなどの偽装のみで運用された
無蓋(むがい)掩体壕というものも多くあるらしいが、近年周辺の開発が進み
次々に消滅しているようだ。惜しいことだ。


さて、



とても飛行機の基地を探しているような状態ではない。



ホントにこんなとこにあるんですか?
ここは平野部ではなく、丘の上を歩いている。

と、



斜面の下になにか見えてきた。




こ、こんなところに…
やはり丘自体が掩体壕だったのか。




これも1号と同じくらいでかい。しかも立ち入り禁止ではない。
そりゃそうだろうな。ここ、普通は見つからない。



掩体壕まわってていつも思うんだが、もう70年近く前のものなのに、
ぜんぜん崩れても無いんだよなあ。




コンクリートが上から落ちてきているようなことも無く、現在でも十分使えそう。




出撃を控えた飛行機が向いていた方向の景色のみが時代の経過を表している。




一部鉄筋がむき出しになって錆付いていた。
よく見れば骨材(セメントに混ぜる砕石等)も結構でかくて、
現在の建築基準にはおそらく適合しないと思う。

そんだけ急いで造ったってことか。

ちなみに稲童地区は終戦直前に空襲を受けている。
それまでは北九州や下関、広島方面の防空を担っていたのだろう。

築城飛行場は戦後すぐに進駐軍によって接収され、1955年(昭和30年)より
自衛隊機地としての運用が始まった。



さて、主だったものは回ってしまったし、航空祭は再来週だしで、
我々は再びそれぞれの愛機に乗って、次の目的地を目指した。

現在午前10時30分。まだまだ旅は始まったばかりだ。

つづく→



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 2009.4.7



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