国東半島巡り 国見町5
新涯隧道
しんがいずいどう |
国東広域農道(オレンジロード) |
大分県国東市国見町新涯 |
竣工
改修 |
1910年(明治43年)
1973年(昭和48年) |
延長
(改修後) |
524m |
何度も言うが、現在の国東市国見町の沿岸部にかつて幹線道路はなく、
内陸部の尾根越えルートが「大分往還」として江戸時代より活躍していた。
明治35年測量 大日本帝国陸地測量部発行五万分の一地形図「姫嶋」
明治36年測量 大日本帝国陸地測量部発行五万分の一地形図「鶴川」
そんな内陸道の西端に近い尾根に明治末期、ひとつの隧道が穿たれた。
それが、明治隧道にして500mを越える延長を誇った「新涯隧道」だ。
(せっかくなのでマウス乗っけて他の隧道もチェケ)
昭和2年測量 国土地理院発行五万分の一地形図「姫嶋」「鶴川」
その建設は困難を極め、1年半の工事の末、明治43年に竣工した。
その後昭和48年に拡幅工事を受け現在に至る。
櫛来地区から登っていくと現れる。
新涯隧道 櫛来側坑口
隧道は現在、昭和61年開通の国東広域農道、通称「オレンジロード」の
開通とともに同農道に組み込まれている。
現在はちゃんと歩道も完備されている。
新涯隧道 新涯側坑口
■長大な素掘り隧道だった新涯隧道■
全長は524m。
これが改修前は狭い素掘りだったんだからとんでもない話だ。
いったいどんな様子だったんだろうか。
新涯隧道の近くで育ち、改修前の隧道をよく通っていたと言う女性に
当時の様子について話を聞くことが出来た。
うちの母親だが。
Q.狭かった?
「うーん、普通にトラックが通れるくらいはあったなあ」
Q.車が離合できんかったやろ?
「だから、真ん中のとこだけ掘り拡げてすれ違えるようにしちょった」
Q.電灯はあった?
「真ん中にひとつだけやったから暗かったわあ」
Q.素掘り?
「コンクリ吹きつけてた」
Q.舗装はしてた?
「真ん中から櫛来側だけがコンクリ舗装やったから、そこに段差が出来ちょって、
みんなで櫛来の浜に貝掘り行った帰りに、そこでこけて貝ばら撒きよった〜(笑)」
「暗くて見えんのやわ〜段差が。」
(しばらく話は続く)
多分に思い出話を聞かされたが、興味深い点もあった。
話の舞台は昭和30年代後半と思っていただいてよい。
まず、真ん中だけ拡幅されていた件。
524mと言うのは当時の大分県の隧道の中でもトップクラスの延長である。
しかし証言からも、幅員はトラックが通れる程度。
(残念ながら県道ではなかったので例のリストには資料が載っていない)
そんな隧道で両側から車が来ても離合不可能。
オマエがバックしろ、そっちこそ下がれの応酬となるのは明白。
その解決策として中央だけ拡幅して、隧道内に離合帯を作っていたとは。
↓現在でも結構な距離感がある。
そして舗装。なんで半分だけ舗装されていたんだろう。
よくわからんが、予算とかその辺の問題だろうか。
あと電灯。500mでひとつって暗すぎるだろ!
[ THE 余談 ]
そんな暗いトンネルだから、昔からお化け話が絶えない。
中学の時に聞いた話だけでも以下の通り
・ジョギング中トンネル内で老婆に話しかけられ、その後振り返るといなくなっていた
・首の無い馬に追いかけられた
・馬の首に追いかけられた
どうやって馬の首が追いかけてくるのかまったく想像がつかない。
しかも現在も照明がフルに点灯しているわけではなく、
「危ないので新涯隧道を明るくして欲しい」と言うのは地元PTAの長年の悲願である。
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そんな新涯隧道だが、開通時すでに、後に213号線となる沿岸道路の整備が始まっており、
伊美地区へと通ずる権現隧道、チギリメン隧道に代わる妙見隧道が開通することで
交通は次第に沿岸道路へシフト。その主要街道としての役目は現在まで残ることはなかった。
新涯隧道を抜けて伊美地区を望む。
正面の尾根、写真の中央付近の山中にあの伝説の「チギリメン隧道」が眠っている。
おわり
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2008.4.7
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