特設ステージNo.6
熊野隧道

熊野隧道の記憶 その3
■作られし道たち■

無いと思っていた隧道に新年早々出会うことができた。

本当に一人では発見できなかった。




ただ、装備不十分で中を確認できなかったのは悔やまれる。



熊野側坑口をあとにした我々は、車に戻るべくヤブを歩いていた。

ふと遠方に目をやると、現県道の法面の上に何かが見えた。


(マウス乗っけて怪しいものをチェック)


なんか、あそこで道がぶった切られているように見える。

BOW氏に聞くと、以前はあの高さに道路があって、道路改良の際に
直線化のための新たな掘削によってあのように残ったのだと言う。

で、あそこに見えている道は、そのまま今立っているところに繋がっており、
熊野隧道をくぐって南の山香方面に抜けていたとのこと。

つまり

赤丸で囲ったあたりの現道は、とにかく掘り下げられて作られており、
過去あった道はことごとくぶった切られたということのようだ。

確かにここから南の山香への峠付近でも、現道脇に
廃道と化したアスファルト路面が細切れに残っている。


以下はBOW氏が作ってくれた図面である。

当時を知る人で無いと絶対に作れない図であり、「どうぞ使って下さい」と
快諾してくれる氏の寛大さに感謝である。


作図:BOW氏

道路ぶった切られ地点より、現在立っている場所(矢印)を望む。

山香側から隧道を抜けた道は、隧道の先で分岐し、
一つはそのまま豊後高田方面へ抜け(黄色)、
もう一つは熊野地区へ山を越えて繋がっていたと言う(赤色)。



作図:BOW氏

これは現在熊野地区へ抜ける道から隧道方面を向いた図である。

で、この赤い道は…



あ、ここから話どんどんややこしくなりますけど、
最後にまとめますんで、さくっと読んでください。



で、赤い道。

BOW氏が子供の頃、実は山香方面から豊後高田へ抜ける道は
この道しかなく、山香→熊野隧道→熊野地区→豊後高田市田染(たしぶ)地区
となっていた。

もう1本離れた場所にあったが、それは以前平野隧道で紹介した
旧県道新城山香線であり、熊野地区は通っていなかった。



昭和45年あたりの山香→豊後高田のルート

BOW氏が言うには、この熊野ルートはとても狭い道で、
熊野磨崖仏への参道の意味合いがあったのではとのこと。

車は旧県道のほうへ回っており、熊野磨崖仏へやってくるには
旧県道から平野隧道の前で熊野方面へ右折して向かったそうだ。
この参道をとりあえず1期道とする。

さて、不便なこともあったのだろう。
この参道の周辺で道路改良が始まる。


作図:BOW氏

この黄色ルートが作られたのだ。
時期はよく分からないが、昭和50年前後のようだ。
この道路は高田方面まで繋がっていた。
これを仮に2期道と言っておく。

あ、ホントややこしくなりますが、あとでちゃ〜んとまとめますので(汗)

で、この2期道が改良されて現道(もち3期道)となるのだが、
前出のtaihei氏からもらった古地図では、この2期道が


隧道をよけるように通っている。

これはBOW氏の友人の方の証言から、昭和57年あたりでは確かに
こうなっていたとのこと。ただし現道のような道ではない狭い道だった。

その後、さらに開削されたこの2k…





あー、自分で書いてて、マジでワケわかんなくなってきた!




■強引にまとめてみる■

このページはもちろんBOW氏にもらった情報をもとにして書いている。
それらをすべてまとめた図が以下の空中写真だ。

時系列を追うように熊野隧道周辺の道路変遷史を作ってみよう。




BOW氏作図の上にTEC加筆

もともとこの付近には山香町から峠を越えて高田に至る狭い道があった。
明治時代の地形図にも描かれている。
これを0期道とする。
自動車など通れない道であったと思われる。

その後、時期は分からないが過去の地形図からも、昭和前半に
熊野磨崖仏への参道として(?)高田、山香両方向からの道が
整備され、この時熊野隧道が掘られた
これが図中の1期道。

その後、昭和50年前後と思われるが、0期道に添うような形で
車道が整備されるも、熊野隧道を通っていたため大型車は通れなかった。
図中の2期道である。
この改良により、大型バスが熊野磨崖仏近くの駐車場までは
高田方面より乗り入れることができるようになった。(写真上部の青P

その後2期道が改良されて現県道となるのだが、その前に
一時期、熊野隧道をよける形(つまり現在の位置)になるよう改良を受けている。
仮に2.5期道としよう。
時期は昭和59年までに改良されていたことが分かっている。

この2.5期道の段階でも幅員は1.5車線であったようだ。
さらに道路の高さは熊野隧道と同じ高さ。

つまり赤実線で描かれる3期道(現県道)

かなり掘り込まれていることが下の写真からも分かる。



そして、3期道が整備されたのが21世紀になってから
豊後高田市から山香町までのこのルートが全線2車線となり、
県道新城山香線がこちらに切り替えられた。

そして、熊野隧道を通っていた参道も、県道からT字に分岐するように
掘り込まれ、分岐地点以外も車で容易に通行できるほど拡幅された。
これは別ルートとして2期参道とでも言っておこう。

ただし、分岐地点以外の箇所については、おそらく2.5期道の時代にも
ある程度改良されていたものと考えられる。

そしてこの改修により、熊野磨崖仏の直近の駐車場まで大型バスが
通行できるようになった。上の写真の赤Pの部分である。

赤Pから撮った写真。



以上の変遷史を作るに当たって、普段には無く僕は一遍の資料も読んでいない。

っていうか、資料そのものが無い!
もちろん探したよ、豊後高田市図書館にも2回行ったよ(笑)

よって若干の間違いはあるかもしれない。
それはそれで良いのである。

これはすべてBOW氏と彼の友人たちの記憶の集合体である。

何しろ彼らが
「ここを通ったときに段差で壊した車を買ったのが昭和○○年だから、」
とか
「免許を取ったのが昭和○○年だった。」
「車が故障して歩いて帰ったときはまだ隧道を通っていたから、」

という体験談まで、とにかく記憶を呼び起こしながら、
そのつど僕にメールで送ってくれていたのだ。

そして、僕からの直電話にも嫌な顔せず質問に答えてくれた。

感謝の念に耐えない。
ほんとありがとうございます。


今夜もまた氏からメールが届いた。

彼らが新たな記憶を呼び起こす限り、僕はこのページを
更新し続ける所存である。








■熊野隧道■

この小さな小さな廃隧道の周りで、かくも多大な道路改良が
続けられてきた。

さし絵を作るだけでも大変だった。





最後に1枚の写真をお付けしよう。
BOW氏が昭和46年秋に撮られたと言う貴重な写真だ。

氏はこの時遠足で熊野磨崖仏に行ったという。












熊野隧道 山香側坑口

昭和46年、確かにこの隧道はこの形で使われていた。

そして、昭和54年は、まだ車が通っていた。
昭和57年〜59年には、既にこの隧道を通らないように
隣に道路が作られていた(2.5期道)

その後、誰も通らなくなった。



ちなみにこの隧道。
初めて発見したときからずっと疑問に思っていたが




崩落などしていないのではないか?




↓この写真と上の写真を比べてみて欲しい。
隧道の天井付近を。




この隧道は、新道切り開きの際の土砂によって、「人為的に半分埋められた」
と考えれば、地形的につじつまが合うのだ。

ただ、これも確定した話ではない。



先ほども書いたが、このページはしばらく更新が続きます。



だいいち…





















やりのこしたこと、あるよね。






(しばらくお待ちを)



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2010.1.11


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