特設ステージNo.7
薩摩街道 三太郎峠 「廃道をゆく2」への道

薩摩街道三太郎峠 赤松太郎峠の6

■廃道に突入?■

さて、三太郎峠の入り口、赤松太郎峠北側の江戸街道石橋群も
前回までで全部紹介できた。 さて…






須田眼鏡橋を過ぎたところで農道の舗装部は終わり、その先には
峠方向に向かって山道があるように見える。


地形図を見る限りここから先が農道にもなっていない廃道区間と思われた。
峠はもうすぐだ。

いままで舗装路ばかりだったので、オフロードの心構えに切り替えて行こう。


いいカンジじゃん?

なんか廃道っぽくなってきたよ〜。
これから先が江戸道の本領発揮か。


と、



いきなりわけが分からん状態が出現する。





なにやら道を掘り込んで、さらにビニールを敷き詰めて
水路が作られている。なんだこりゃ?

多分、上流側から取水して、谷(左下。結構深い)より上の田畑に
水を引くための工夫なのだろう。

なるほど歩きにくい。


ちなみに江戸道江戸道言ってるけど、

参勤交代で薩摩藩の人たちが千人とか通った道だよ?コレ…
もうちょっとこう、なんかそれっぽく無いもんだろうか。石畳とか…



と、そんな山道兼水路も、100m行けばがけ崩れで通行不能。
まあ、そんなに藪でも無いので上側(写真右)を巻いて進む。






道は復活しているが、どうもあちこちにパイプやらなんやら
人工物が多くて、なんかこう… 廃道ってカンジでは無いんだよなあ。




それでも進んでいくと、道は突然舗装された道に横切られた。



地形図を見てみると、ちょうどここで明治国道に上っていく
連絡道路のようなものが点線で描かれている。



ちなみにこの舗装路は谷を渡って反対側の山腹まで繋がっている。
多分林業用の作業路だろうと思う。



江戸街道はこのあたりでは谷底、川のすぐ脇を通っているが、



ここで川に合流。

してどうする。

道はどこに行った…?

ひとしきり辺りを探ってみたが、林と藪と川しかない。
多分、これらに道は取り込まれてしまったのだろう。




しょうがないので、先ほどの連絡道(作業道)を通って
明治国道へ抜けることにした。




普段は鎖が張られていて、明治国道からは入れないようになっている。

よく考えたら、車を置いているのは現国道だ。
とぼとぼと2kmほど歩いて戻る。




近道しようと思ったら、ここも通ることになりました。




■赤松太郎峠 田浦側■


さて、明治国道の峠に戻ってきた。

(戻ってきたけど、ここからしばらく22年1月の写真です)

.
はるか彼方に見える下界、田浦地区にこれから下りていく。
明治国道は写真右側の山肌に沿って下りていったが、
薩摩街道江戸道は写真中央の谷を直滑降します。



赤松太郎峠全体概略図

「一応道があるよ」を示す点線が田浦地区まで谷沿いに下りていっている。
さて、これをこのまま下っていけるのだろうか。




と、明治国道の脇になにやら立っている。




なかなかイカス道標がどど〜んとそびえ立っていた。
コレはわかりやすい。
右に行くと江戸にいけるようである。

コレまで特に言ってなかったが、歴史上において

島津公が参勤交代の際に越えて、
かの篤姫が徳川家に嫁ぐ際に越え、
西南戦争で敗走する西郷軍が越えて行った

三太郎峠である。歴史の道である。


実はこの道標は、三太郎峠の各峠のあちこちに設置されており、
のちの佐敷太郎峠、津奈木太郎峠では大いに僕を助けることとなる。
それはまたおいおい。


道標が示す「薩摩」の方へ下りていく道があった。
これが江戸道、薩摩街道だ。



比較的広めに道幅もとられているが、コレは多分明治14年の改修のものだろう。





よく見ると道には平たい石が埋まっている。
石畳か?



しかし3分くらいすすんだところで道は途絶。
というか、なんか平場みたいになってて壮絶な藪。
どっちに進んでいいかも分からないので途方にくれる。




右手には立派な砂防堰堤(ダム)が建設されている。

※ここから先、砂防ダムのことは砂防堰堤(えんてい)と表記します

実は21世紀初頭、砂防関係の仕事をしていたのですが、
某N県の知事(当事)が「脱ダム宣言」なるものを発表し、
なにやら「ダム=無駄な公共事業」というイメージができてしまいました。
全然規模も目的も違う砂防ダムなんですが、お上より
「イメージが悪くなってるんで、報告書は『堰堤』って表記してね」
という、信じられないくらいバカバカしい通達が流れてきました。
そのとき報告書内で数十基のダムの名称を「堰堤」と書き直したんで、
このほうがしっくりくるんです。バカバカしいよね。

とにかく進むべき道が分からないし、ともすれば砂防工事で
消滅している可能性も高かったので、いったん引き上げる。

(↓ここから22年7月)


峠直下の砂防堰堤から下の道を確認するため、いったん明治国道から
田浦へ抜け、そこから江戸道を思われる点線道を上ることにした。
写真中央が南側から見た赤松太郎峠である。


点線道はコンクリートで舗装された農道であったので、
一気に峠付近までくることが出来た。
どうせこの道をもどるので、途中の様子は無視して、まずは峠直下まで。


ここはもうすぐ峠というところであるが、ご覧の通り草に埋もれていたので
これ以上の進入はあきらめた。


スズメバチが怖いんです…



多分藪を越えていけば先ほどの砂防堰堤1号の脇に出て峠に達するのであろう。
おそらく今来た農道含めて砂防工事用道路となっていたはずだ。

上写真右に見えるのが、この谷が「砂防指定地」になっていることを示す看板。


衛星写真にそれぞれの道を書き込んでみた。
現在いるのは青字で「水槽」の場所。
峠直下にあった砂防堰堤は仮に「2号」としておく。
衛星写真では近くにもう一つ堰堤らしきものが見えおり、上記看板にも
それらしい記載があったがあまりに草木が生い茂っていて確認できていない。



四角いのが砂防堰堤2号から下ってきた所にある水槽である。
青いのは違うよ。手前のコンクリのやつね。




その正面にあじさいに彩られた例の道標があった。


薩摩の方角(谷の下流方向)を見るとごらんの通り平地もしくは林と

なんにおいても常にタイミングの悪いことに定評のあるワタクシ。
なんで盛夏にここに来ちゃうかなあ…

正直な気持ちとして、この藪と当日の猛暑も手伝って、
「廃道をいく2はもう出版されちゃってるんで、今日は極端な藪漕ぎはしたくないなあ…」
という、永冨・平沼両氏からぶん殴られそうな気持ちも無くは無かった。


とりあえず江戸道はこの谷に沿って下っているのは間違いないので
前述の農道を下りながら要所を押さえていこうと思い車に戻る。



あ、「農道」とは書いているけど、








こんな感じだから。

草が覆いかぶさっているフロントガラスに注目(右上)
普通の神経してたら多分自動車でここに突入しようとは思わないだろうな。
免許とって以来14年間、「引くこと」を知らないドライビングスタイル。



ひとしきり「バサバサ」「ガキッベキッ」というサウンドを堪能したのち、



←農道はこちら        ↑峠方向           谷側→
江戸道が農道に平行しているのが分かる地点にたどり着いた。
写真は下流側から峠方向をむいた写真だ。少し歩いて進んだが
舗装された道路ですらあの有様だったんで、こちらも結構イッてた。



←赤松太郎峠                        田浦→

江戸道脇の倉庫に前に道標あり。
ほんとマメに設置されている。
設置したの教育委員会の方々かな?ありがたいことだ。




例によって薩摩方面。これも結構広い道だなあと歩いてみたら、




こっちは完全に砂防堰堤(1号)で断絶されていた。

やはり全体的に「江戸時代の道を歩いています」というカンジがしない。
例えて言えば、番組冒頭に黄門様が助さん格さん他を両脇に従えて
歩いているシーンに使われるような道?
ああいうイメージがない。

詳しい人からは「そういうイメージもってんのかよ」と怒られそうだが…

とりあえず、「江戸時代の道があった」という痕跡を探す赤松太郎峠だった。


田浦地区に近づくと、江戸道は農道と一体化。舗装路となる。
今こうして写真を見返すだけでも、よく車で走ったなあと我ながら思う。


だんだんと目的地田浦も近づき、自動車道のインターも見えてきた。
この辺はもう十分快適に車でも走れる…失礼、軽自動車で気をつければ走れる。


街道脇のみかん畑になにやら看板が見える。
薩摩街道に関するものだろうか。



「合戦場の首塚」

もう「首塚」って聞くだけでオカルトマニアが怪談の一つや二つ持ってきそうだが、
それに加えて「合戦場」である。確実に何かがあった場所だ。


1592年、秀吉の朝鮮出兵に際して起きた国内唯一の反乱、「梅北の乱(梅北一揆)」において
討ち取られた薩摩藩の武将の首がここに埋められているそうな。
しかも2人分。怖い。

しかし、最後の3行。

「今でもこの地を『合戦場』と呼び、この迫(谷のこと)を
『トクジンネンガ迫(東郷甚右衛門迫)』と呼んでいる

よくある「それが訛って」とか「〜より転化して」ってレベルを超越してます。


調べてみたら反乱の首謀者である梅北宮内佐衛門(梅北国兼)自身の首は
討ち取られたあと、わざわざ佐賀の唐津まで運ばれて晒されている。

(当事唐津は朝鮮出兵の前線基地であり、反乱は熊本城主加藤清正の朝鮮出兵中に起きた)

戦国時代はほんとこの「首」に関する話題が多くて、
もっとこう穏やかな方法は無かったんだろうかと思う。首だよ?

ま、詳しくはwikipedia(梅北一揆)を参照してください。
そんな出来事があったことすら知らなかったよ。



すっかり普通の町道になってしまった江戸街道(アスファルト敷き)は
写真の奥で右から下ってきた明治道に合流。



そのまま現在の国道を目指し、合流します。


さて、だらだらと書き綴ってきました赤松太郎峠もここで終わり。
なんか消化不良感も否めない。6ページもやっておいてなんだが(^_^;)
こればかりはすみません。

藪が枯れたらもう一回行って見ようかと思っています。
特に南側の砂防工事やってた区間。



最後に赤松太郎峠の全体図を。

グーグルアースの3D機能を使って、北からの鳥かん写真をば。


分かりやすいような、さらに分からなくなっているような…


次回より佐敷太郎峠へ→





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2010.9.26


 
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