国東半島巡り 香々地町3
第三大高島隧道(仮称)

確か僕は、「高島地区にある二つの古隧道を探す」っていう
目的をもって車を走らせてきたはずなんだ。

しかし、目的地に着く前に地図に無い小高島隧道を見つけた。
アレが何かの呼び水だったのだろうか…

確かに古地図に載っている隧道は二つとも突破した。


そして僕は満足げにタバコに火をつけて、少し道を歩いてみただけなんだ。

で、



なんだよコレは!


ちょっとまて、聞いてないぞ。みっつ目だと?

すぐさま僕は車に戻り、古地図を確認してみた。
(僕は探索に行くとき、所持する古地図を全て入れたA2サイズのクリアファイルを車に乗せていく。でかくて邪魔)

(例によってマウスをのせてね)

昭和26年測量 国土地理院発行五万分の一地形図「姫島」


にしーーー!!

西国東郡の「西」ーーーーー!!


コイツはイレギュラーだ。完全を期すべき地図が、自らの記載で
(一部の人間にとって)最重要事項を隠してしまっている。


国土地理院技師A「多分いつかここに隧道とか探しに来るヤツがいると思うぞ。」
国土地理院技師B「あー、いるかもね。ちょっとソイツをびっくりさせてやるか?w」

という陰謀でもあったんじゃないかと思わせるナイスな展開。
ええ、びっくりしましたよ。

地図職人の小粋な計らいに感謝。勝手に決め付けるが。


第三大高島隧道(仮称) 国見側坑口
だいさんおおたかしまずいどう(仮称) 豊後高田市道
大分県豊後高田市大高島(旧制香々地町大高島)
竣工 おそらく昭和初期 延長 未計測

とりあえず連番をつける。おいおい三連隧道かよ。
嬉しいことしてくれるぜ…

ここまで来て入っていかない理由は無い。



しかし手前には擁壁が僕の行く手を阻んでいる。
ちょっと上れそうに無いなあ。しかもヤブだし…




例によって反対側。こっちもヤブだ。でも擁壁は無いので
ヤブさえ越せれば坑口までたどり着けるかもしれない。

ちなみに山側の路面に引かれたオレンジのライン。
「落石多し。駐車禁止帯」のサインとのこと。デンジャラス。


なにやら中央に壁が見えますね。しょうがないヤブに突撃




うわ!
目の前にいきなりこんなのが現れると、わかっていても体が
「キュッ」っと硬くなる。相変わらずのヘタレ体質。



第三大高島隧道(仮称) 香々地側坑口
ちょっと引いて写真を撮ってみる。ひどいヤブだ。




上の白く見えるところが現道。少しだけヤブを漕げばココまで上って来れる。



中は素掘りで、第二ほどではないが、若干カーブしている。






だから、ヤブだっつってんだろ!
なんで自転車とかパソコンのモニターとかが放置されてんだよ!
ってか最近だろパソコンって…



国見側の出口までやってきた。
いろいろ写真撮ってきたけど、案外この構図もいいなあ。廃美。



例によって、落石もなくしっかりとした隧道だ。
一回でいいから車で通ってみたかった。




隧道から出て、右手が古道。山ですけど。
昔は断崖に作られたスリリングな道だったのだろう。

埋め立てて作られた現道が結構下に見えるもん↓



崖に対して斜めに坑口が設けられているので、スラッシュカットされた坑口。
もうほんとに「苦労して崖に道作ったんですよ、ええ。」って感じだ。


ってかこの崖、軽く90度を越えてるだろ!
右側の現道に対してオーバーハングしている上にこの礫の量。

現道作ったはいいけど、それすら危険という状態はいかがなものか。



坑口から真上を見てみる。確かにいつ落石があっても不思議ではないし、



実際こんなのが坑口にあったりする。







古地図に惹かれてやってきた僕は、古地図のちょっとしたイタズラによって
図らずも「3連続+1」の古隧道をここ高島地区にて確認できた。




もう無いよな?






この道がいつ作られたのか。それは不明だ。


第一大高島隧道レポで僕はこう書いた。


海岸ルート。

国東半島北部の道の歴史を語る際、「沿岸道路」という言葉は
避けては通れないキーワードだ。

このサイトでは過去いくつものレポで「かつては海岸沿いの道路は無かった」と
しつこいくらいに書いてきた。そして国見町が最後まで残ったと。

明治中期になり、半島の東西、現在の豊後高田市および国東市(前国東町)の両方で
半島北部に向かう道路の建設が計画される。つまり現在の国道213号線である。

この内、東からのルートについては次の機会に。

で、西からのルートのお話。


■沿岸道路 豊後高田〜竹田津 間

このルートは明治初期にはやはり沿岸ではなく、内陸の往還道がメインルートで
あったが、国東半島に来たことがある人ならわかるが、とにかく山谷の連続。

これでは馬車が通るのもきついってことで、明治26年、
周辺各村の垣根を越えた「道路改築組合」が結成される。

そして各機関との折衝の末、明治29年に沿岸道路建設着工。
同34年には豊後高田〜竹田津間の開通を見た。

で、そのルート選定の際、もめた場所があった。

それが香々地町と国見町(現在の豊後高田市と国東市)の境界。

当初は香々地町からそのまま海岸を通り、高島地区から竹田津に
抜けるルートが案として挙がっていた。

しかしこのルート、ココだけでも最低4つの尾根を越す必要があり、
その分隧道工事が増え、さらに延長も長くなる。

それでは大変ということで、まず香々地町から山のほうへ向かい、
見目地区から尾根ひとつ越えて竹田津側の岡地区に抜けるルートが
対案として挙げられ、結局採用となった。

その時廃案となったルートこそ、今回僕が通ったルートであった。


※廃案ルートは資料が残っていないためあくまで推測。
ただし、「長崎鼻(高島地区の西の岬)方面に向かうことは資料にあるため、上記ルートの可能性濃厚。


つまりこの道、「国道になり損ねた道」だった。

しかもその廃案理由が、莫大な建設費用に対して
「人もあんまり住んでねーしなー」ってことだったらしい。
残念だ。

もしもこちらが採用されていれば、その後国道として活躍していたはずである。
そして高い確率で「バイパスによって旧道化」していたはずである。
ちょっとあんまりな地形なんでね…
残念だ。

ちなみにこのときの採用ルートで尾根を貫いたのが
廃道界ではちょっと有名な「初代・竹田津隧道」である。

レポ待ってくださいね


そんな国道になり損ねたルートにも、後年ちゃんと隧道が掘られ、
人々が行きかい、そして道路も改良され、いつしか廃隧道となった。

で、平成になり20年も経って、それをわざわざ見にやってくるヤツもいる、と。



大高島隧道三部作 完



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2008.6.4


塩屋隧道
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