特設ステージNo.5
旧椿隧道

旧椿隧道発見記 その4
■また会うことになるとは■

なんの因果か、仕事で北九州の門司にて廃隧道を発見して7年が過ぎた。

ある日僕は、なぜか興味を持ち始めていた「廃道」というものについての
ウェブサイトを片っ端から眺めていた。
みなさん、いろいろ趣向をこらして楽しいページを作っている。

「オレも作ってみよっかな〜」
などと突飛なことを考えていたら、taiheiさんとこの「tunnelweb」の
掲示板にて、ある人がこんなことを書いていた。

「門司の椿隧道の旧隧道の存在をご存じですか?」
「一度探してみましたが見つけることができませんでした。」

どこかで聞いたことのある単語がでてきたぞオイ…

taihei氏もどうやら発見できていないようだ。


あのトンネルを探している人たちがいる…
2人とも、あの道で迷っている…



あの道


僕はすぐさまペイントソフトを起動。
うおっちずから地図を拾ってきて加工して、掲示板の返信ボタンをクリック。

そして、隧道までのルートの説明文と地図を投稿した。


当時投稿した地図

早速レスポンスあり。
コレ系サイトへの初書き込みは、お礼の言葉とともに迎え入れられた。

そして二週間もたたないうちにまずtaiheiさんが現地到達。
いや、広島の人でしょ…?行動早すぎ。

それを聞いたもう一人、一番最初にこの隧道を話題に上げた人。
おなじみ探検北九チョメ隊長が、翌日現地に到達。

お二人とも自身のサイトで詳細なレポを載せてくれた。

「なんか…、このオレが役にたっちゃった?」

2007年6月の終わりのことだった。


その後の流れはコレまでレポートしてきた中に書いてある。
その年の年末、彼らの合同探検に参加させていただき、
「隧道サイト」作成を決意。一ヵ月後にこのサイトが完成した。

旧椿隧道がもたらしてくれた縁だった。




世紀末以上に何が起こるかわからん21世紀だ。


■続々と集まる情報■

さて、



こいつはいったい何だったんだ?


この隧道、その場所からも、まず間違いなく「初代椿隧道」である。

しかし思い出して欲しい。
僕が仕事のときに使ったリストには「椿隧道」が二つあったことを。

taihei氏が当局より取り寄せたリストにはこの隧道は載っていない。

山形の廃道さまが提供する隧道野郎御用達のあのリストにも「椿隧道」の
記載があるが、それには昭和13年竣工の文字が。そして延長は145.6m。

コレではない。


この隧道の延長は81mなんである。

実測した僕が言うんだから間違いない。

となると、この昭和13年物は、下を通る現道の椿隧道のことであろう(※)

※実は下を通る現在の椿隧道(県道上り側トンネル)は名前を
椿トンネルに変えており、さらに延長はもう少し伸びている。
コレは1998年の新椿トンネル開通に合わせて行われた改修で
土砂災害防止のために行橋側坑口を延長させたためである。


となると、この初代椿隧道はそれ以前に作られた物ということになる。
いったいいつ?

謎は深まるばかりだが、まだまだ気になることもある。


扁額(トンネルのおでこに貼る銘板)が無いんである。

だからこれが「椿隧道」なのか本当はわからないんである。
こんな隧道、当時の国道・県道クラスではあまり無い。
ここまでポータル(坑門)を造りこんでいるのに。



そして前後に道がまったく無い。

トンネルを抜ければそこはヤブなんである。
前後の道がぶった切られている。何があったというのだ。


そして隧道野郎達はそれぞれ頭を悩ませていた。


taihei氏は幾度か北九州市に乗り込み資料を探しているようだ。
しかし、旧椿隧道に係る資料がまったく無いとのことだった。

僕は、少々気まずかったが北九州市役所にメールで問い合わせをした。

※というのも、おそらくそこには点検者として僕の名前が残っている
可能性があり、さらに僕は当時在籍した会社を既に退職しているのだ。
ま、実際はそんなどこの馬の骨ともわからんヤツの名前などどうでも
良かったようだ。トンネルリストには点検表など付いていなかったのだろう。

無視されるかと思っていたが返事が返ってきた。

(北九州市担当官の方、お名前は出せませんがありがとうございました)

市管理のトンネル台帳では「旧椿隧道」は
竣工昭和13年、延長81m、幅員3.4m
となっているとのことだった。

昭和13年以外、すべて僕たちが実測したものだった。
つまりこの台帳は間違えている

次に僕は国土地理院に各時代の地形図を発注した。
明治・大正・昭和(戦前)・平成の計4部。
合計2000円もした。

「平成はどう考えてもいらんやろ!」
と言うなかれ。

このサイトのために買ったんです(泣)

そうこうしているうちに、tunnelweb掲示板には続々と情報が集まっていた。

整理してみよう。


明治35年測量 
大日本帝国陸地測量部発行
五万分の一地形図「小倉」


明治時代中期

当時門司から行橋方面へはご覧のように山道があるだけ
で、椿・石塚両峠を越えていた。
もちろん隧道も無い。


ちなみに周辺地域の道路整備もほとんど進んでおらず、
唯一西側の門司港から小倉方面へ向けての道路が、広
い道として描かれているのみである。

言うまでもなく、現在の国道3号である。


するとtunnelweb掲示板に有力な情報が投稿された。

登場されたseamoon様によると、この隧道は大正11年
竣工したとのこと。
氏が郷土史家の編さんされた資料から発見し、当時の
黒川村史にて確定的な記述を見つけられていた。

↓さっそく大正の地図をチェケ。

大正12年修正測量 
大日本帝国陸地測量部発行
五万分の一地形図「小倉」




大正12年


隧道あったーーー!!

そこには椿峠に小さくトンネルマークが!
大正11年竣工は間違いないようだ。

ちなみにこの頃は各地で県道クラスの道路が改修を
受けている時期である。

北の黒川地区から南の伊川地区までの道路が全体的に
改修されているのがわかる。

南の石塚峠にはまだ隧道は無い。

しかしこれで南北の通行ははるかに楽になったであろうと
思われる。

通ったことのある人にはわかるが、このルートの最難関
がこの峠越えなのである。
椿・石塚に加え、最も門司よりには桜峠がある。
(左図の大正の門司のちょっと上欄外に)

結局、なんでトンネルに扁額が付いていないのかという
疑問は晴れなかった。

ナイショにしときたかった理由でもあったんだろうか?

昭和11年修正測量 
大日本帝国陸地測量部発行
五万分の一地形図「小倉」





昭和11年

仮説による二代目椿隧道(現椿トンネル)開通直前の
地形図だ。

基本的に大正の改修のルートが残っている。
石塚峠はなぜかルートがやや変わっている。

ちなみにこの石塚峠越えルートは
現在も石塚トンネルの上に残っている。
詳しく知りたい人は直接メール下さい。

で、この2年後に二代目椿隧道が誕生し、同時に
石塚峠にもトンネルが掘られる。
つまり現在の県道ルートが完成する。
当時の道路名は「門司苅田線」であった。
(現在は門司行橋線)

これについては私見で確定的ではないのだが、
何か軍事的な意味のある改修だったのでは
ないだろうか?とオタクは思う。

3年後には太平洋戦争が始まるし、門司は既に
工業都市だったし、南の曽根地区の干拓地と
もっと南の築城には軍用飛行場がその後建設される。
(現在の旧北九州空港および航空自衛隊築城基地)

上の初代椿隧道の共用年数がわずか20年なのである。
あまりに不自然では…?


平成8年修正測量 
建設省国土地理院発行
五万分の一地形図「小倉」
平成8年

ま、そんな軍事オタクの私見などどうでもいいが、
初代椿隧道は新道建設によって廃道の道を歩む。

そして平成。左図の地形図が描かれた後、このルートは
再び改修期に入り、椿・石塚それぞれの隧道が改修を
受けるだけでなく、それぞれ東側に新トンネルを掘り、
上下線で別々のトンネルを使うという贅沢な道となった。

←マウスを乗せると旧ルートを表示します


辺りには九州自動車道も通り、インターもできた。
先にも述べたが、道路改良のおかげで門司-大分方面の
最強の裏道ルートになった。

ちなみに僕は学生時代に改修前の椿隧道と石塚隧道を
何度も車で通っている。

ええ、古びた昭和13年製の隧道でしたよ。




ひとつ言っとかないといけないことがある…

前述の北九州市様からのメールである。

「平成13年度に『廃道』となっています。」(※法的な意味で)


平成13年度…

2001年度…

調査した年…









僕が引導わたしちゃったの??


(断じて違うと思いたい)



■最後の疑問■

さて、そんなこんなで情報も出揃った。
まさかあの時見つけた隧道がここまでのものとは思っていなかった。

ある日、たまたま北九州に行ったのでチョメさんの探検隊ガレージでの雑談中。
話題は我々を引き合わせてくれた、かの隧道に。

「あそこ、路盤だけ新しいよね。」
チョメ氏は言う。

てっく「そうなんすよね。あれだけは未だにわからんですわ。」





旧椿隧道内部の路盤だけが、確かに新しいコンクリート製なのである。
これは発見時もそうであった。チョークで印つけながら「誰か通ってるの?」と思った。

しかし前後には道が無いので、車輪が付いた乗り物はここには来れないはずである。
しかも路盤が一段高くなっているので、なおさら車両用の改修ではない。

チョメ氏が言うには、真下に椿トンネルがあるために、
なにか力学的におかしなことになって変状が
表れてしまったのではないかとのことだった。

正直僕もそう思った。

ここまで来たら謎は全部解決しときたかったので、
僕は付き合いのある某大手ゼネコンのトンネル工事をやってる
仲の良い技師に連絡を取ってみた。

「トンネルとトンネルが上下に近い距離で三次元的に近接している場合、
相互のアーチ支持力に影響を及ぼすような変圧は発生するだろうか。」


「この道をいけば→」始まって以来の専門的な文章だ。
違和感ありまくりである。


答えは明瞭だった。



「そういう事例を知らんからわからん。」


ありがとう。





■世界への入り口■

寝かせまくった。

このネタは寝かせまくった。熟成しきったところで書いた。

もうあれから8年が経とうとしている。

山の中で突然トンネルに出会ったときの衝撃。

「気味が悪い」の一言のはずだったが、
この廃道界では「とても綺麗」などという評価が大半だった。

この隧道のおかげで僕はいろんな人に出会え、
流れ流れてこのサイトを作ったわけだ。

いまではすっかり「この隧道は美しい」と思うようになった。


旧椿隧道。


この価値観のイカれてしまった世界への入り口に違いなかった。


しょだい つばきずいどう   県道門司行橋線(の原型)
福岡県北九州市門司区黒川
竣工 1922年(大正11年) 延長 81m


















おわり


掲示板に投稿された内容の引用を快く許可してくださったtaiheiさま
そしてseamoonさま、最初に話題にしてくれたチョメ隊長、
メールにて詳細にお返事をいただいた北九州市建設局Hさま、
皆様に心から感謝します。



そういえば同僚S氏はその後元気だろうか…
これ見たら連絡ください。携帯番号変えてません^^;
ええ、あいつで間違いありません。
あなたが思い浮かべた男です僕は。


追記→



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2009.1.19


県道門司行橋線
県道門司行橋線
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