特設ステージNo.5
旧椿隧道
旧椿隧道発見記 その3
■彼は待っていた■
謎の第三の椿隧道を求めて(いや、あまり求めてはいなかったが)、
我々トンネル点検隊は門司区を彷徨い、ついにその姿に触れた。
現道である椿隧道の上に見つけてしまった平場に突入。
ひどい藪をかき分けて進むとそれは待っていた。
旧椿隧道 黒川側坑口
残念なことに、平場は本当に道だったようだ。
「よく来たな」
そうも言いたげな門構えだ。
よく来たもなにも、我々はただトンネルのコンクリートが落ちてこないかどうか
点検して回っていただけの、しがない土木屋だ。サラリーマンだ。
何の因果か、こんな絶対に車、どころか人すら通らないところまで
苦労してやってきてしまったのだ。どうしろと。
困り果てた僕は携帯電話を取り出し、上司に指示を請うた。
「とりあえずしといて。」
点検開始である。
仕方なく僕とS氏はカバンから巻尺、ハンマー等の点検器具を出し、
有効幅を計測した後、内部に入ってみた。
坑口同様、内部も綺麗にレンガで巻かれている。
コレだけ地下水が染み出しているのに、一つも欠けてはいない。
何かレンガに刺さっていたが、これが何か、我々にはわかるはずも無い。
内部スケッチをとる際の目印のため、我々は5mおきに
チョークで測点を打ちながら内部へ進む。
程なくしてレンガ巻き区間は終了。
ごつごつした地山が姿をあらわす。
坑口付近の地表は地山が緩んでいるのだろう。
土砂が流入している。
だんだんと暗闇には慣れてきた。
これがちゃんと道があるんだったら、車から車輪つき投光器を
持ってきているのだが、ここでは懐中電灯のみだ。
内部は素掘りのまま続いている。
真っ暗だ。
そして静かだ。
いったい1年で何人の人がここを通るのだろう?
ひょっとしてこの隧道はもう何年も我々を待っていたのではないか。
そうも思わせるほどだ。
と、
なぜか出口付近に布団が敷かれていた。
て,S氏「!!!」
暗闇でビビリたおしている我々には、もうその中には
「決して見つけたくないもの」が包まれている!
という発想しか思い浮かばない。
恐る恐る近づくも、幸いそこには布団とボロボロのバッグしかなく、
その様子からもう何年も放置されていたのだろうと思われた。
おどかすなよ…とか思っていたが、そもそも
こういうところで雨風しのがなくても…
我々は息をついて、再び前を向いた。
柄杓田側坑口までやってきていた。
やはりこっち側にも道は無いようだ。
我々はトンネルの延長を測り終え、二手に分かれた。
僕は内部も含めた周辺の地質調査。
S氏は内部の変状点検およびスケッチ。
何気にS氏の方が作業的にも心理的にもハードだ。
そんな彼を不気味な暗闇に残し、僕はまず周辺の踏査から始めようと
トンネルを出て振り返り息を呑んだ。
旧椿隧道 柄杓田側坑口
当時まだ「廃隧道」とかに今ほど興味を持っていなかった僕ですら
「美しい」と思った。
積み上げられたレンガが建設当時のまま欠けることなく
トンネルアーチを保っているのだ。
こちら側は日当たりも良いのだろう。苔むした様子も無い。
意外だった。
だいたいこの手のトンネルは、集団で面白い形のバイクに乗ったり、
ママチャリのハンドルを前に傾けたりしたりしている地元のヤングたちの
絶好の溜まり場になり、坑口・内壁ところかまわずスプレーにて
「夜露死苦」とか「仏恥義理」といった難解な四字熟語とともに
「○○中学がどーしたこーした」という落書きが行われているもんだ。
幸運だったのは、この隧道は「前後に道が無い」のである。
さしもの彼らもここまで来る元気はなかったのだろう。
願わくばこのままの永久保存を。
道はなく、山の中に突如現れるレンガ巻き隧道。
これが「宝物」の発見だとは、当時の僕にはまだわからなかった。
周辺の山をくまなく踏査したが、結局道らしいものは見つからなかった。
いったいこのトンネルはいつごろ出来て、いつからこの状態なのだろう。
僕はコンパス片手にトンネルの場所を平面図にプロットしながら考えていた。
数十分後。
S氏「スケッチ終わったよ。別に困った変状も無し。」
もうすっかり慣れたようだ。
て「了解。こっちも地質調査は終わり。とっとと帰りましょう。」
我々はトンネルを引き返し、偶然見えてしまったあの平場を戻った。
点検完了
車に戻った我々は、とにかく息を「は〜」と吐き、
再び今度は車がびゅんびゅん通るトンネルの点検に向かった。
そしてその後7年間。僕はこの地を訪れることはなかった。
黒川側のトンネル脇の斜面。
写真中央の岩が少し欠けているのが、2001年に僕が
調査のためハンマーを振り下ろした痕跡である。
(2008年1月撮影)
まだまだつづく→
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2009.1.14
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