国東半島巡り 安岐町1
掛樋隧道
かけひずいどう   県道豊後高田安岐線(旧道)
大分県国東市安岐町掛樋
竣工 1907年(明治40年)? 延長 25m

平成20年正月の帰省は、なにも隧道巡りだけが目的ではなく、
高校のクラス会にも参加してきた。

中には10年以上ご無沙汰の友人達もいて、なかなかに楽しいひととき。

みんな30も過ぎて、話す内容といえば高校の時の思い出に加え、
仕事のこと家族のこと、気になる腹回りのことなど。
「いろいろ大変だ」と幸せそうに話す。

そんな話の途中、ある友人に「おまえそういえば安岐だったよな」と声をかける。
友人「そうやけど?」
僕「おまえんちの近くにトンネルあるやろ?」
友人「あるけど。なんで知っとるw」
僕「いや、地図見たら載ってたから」
友人「それがどうかしたんか?」

僕は「最近、FX外国為替取引投資に凝ってて」とでも言うように、
「いや、最近トンネルに凝っててなどとオッパッピーな答えを返す。

普通なら「コイツはどうしちゃったんだろ?」とドン引きするような答えだが、
相手も焼酎が3馬力くらい入ったオッパッピーなので、
友人「おー、さすがてっちゃん。すげーやん。」
などと返って来る。みんな頭が悪いのは10年たっても変わらず。

薄れていく記憶の中、彼から2つの古隧道が現存であることを聞き、
再びバカ話を肴に酒を呑み続け夜は更けた。
(帰りにタクシー代浮かせようと、途中から歩いて帰ってたら、ごうや隧道の歩道の段差から落ちて死にかけた)


翌日。


十分に二日酔いを醒ました僕は、昨夜情報を仕入れたトンネルに向かって走っていた。



主要地方道豊後高田安岐線は改良も進み直線化され快適に走れるが、
それはすなわち「旧道」が多く生み出されたということでもある。


そんな旧道のひとつ。
川に沿って狭い道が走っている。


と、すぐに現れるいかにもな洞窟。


掛樋隧道 南側坑口

明治時代の生まれです。といっても誰もが納得この形。
くだんの友人も「ただの洞窟やぞ」ともっともな事を言ってたな昨日。

しかしよく見ると…

なんで天井が光ってるんだ?

中に入ってみる。


穴!


穴が開いてますぜ兄貴!

なぜか普通のトンネル構造にはまったく必要が無い、
というかむしろ危険な穴が空いている。


見下ろせば、清流から反射する冬の日差しがまぶしい。
ここだけが小さな谷地形になっている。だからか…やっちゃったか…


川面に反射した光が、隧道の天井を照らして生まれる幻想的な光景。

時は明治。

棟梁「うおーい!早よせんかー!道を通すんじゃー!」
人夫「はりこんで(がんばって)しよるじゃねーかー!うりゃー!(ガンガン!)」

バスッ!!


棟梁・人夫「あ…」

ってなことが100年前にあったのかどうか定かではない。
青の洞門にも光取り用の穴が空いているが、こんな大規模ではない




旧道となった後もここを無理に大型車で突破しようとしたツワモノがいたのだろう。
天井には無数のいたたましい夢の跡がついていた。
(「痛ましい」の間違いです…ご指摘ありがとうございます。自戒のため残します…)


掛樋隧道 北側坑口
なんか岩肌ギリギリに隧道を穿ちすぎ。
右端は紙一重ですがコレ。そりゃ穴も空くよ。




今は川の対岸に2車線の立派な県道が通り、ここを通るのは地元の方のみか。

ちなみに、資料では明治40年竣工となっているが、
明治36年測量の地形図に記載がある。これは後日調査が必要だ。

明治36年測量 大日本帝国陸地測量部発行五万分の一地形図「杵築」



とにもかくにも、隧道を作ったとき、もしくはその後の拡幅工事のとき、

穴を空けてしまった彼の心情をおもんばかるばかりである。


おわり

次は酒酔い友人情報2へ→

←国東半島巡りTOPへ
トップへ
トップへ
戻る
戻る
2008.1.29

inserted by FC2 system