特設ステージNo.2
第一,第二平淵隧道

地図から消えた平淵隧道 その6(完結編)

■踊るトンネル大捜査線■



平淵隧道のレポを「その5」までアップしてとりあえず暫定終了とし、
僕は日常生活、仕事へと戻った。


そしてひと月ほどたったある日。

残業しながら日付変更線を越え、フラフラしながら家に帰ると
ポストになにやら水色の封筒が入っている。



封筒には大きく「日出町役場」と書かれている・

これは!
日出町名産「城下カレイ」ではないか!

あれはレポを書き終えた数日後。
どうにも不完全燃焼感たっぷりだった僕は、少しでも情報をもらえればと、
日出町にメールを送っていた。もちろん丁寧を心がけたが内容はと言うと、

「あそこにある道はいつごろ通行止めになったのですか?」
「トンネルがありますけど、いつごろできたのですか?」

年度末のクソ忙しいときに突然役場の代表アドレス「info@...」に届く意味不明メール。

さぞ迷惑だろうとは思っていたが、なんと返信あり。
「お問い合わせありがとうございます」に続き、非常に丁寧な文面で、

「旧県道につき、建設は当時の大分県が施行したものと思われます。」
「当町では平面図の資料しかないので、これから県へ手配してみます」
 「永いこと地元住民も使用していない状態で(中略)現在のところ危険と
判断して通行止めにしております。」

と綴られていた。なんていい人たちなんだ。
日出町都市建設課には話の分る人がいた!
 
とにかく詳しいことは分らないようだが、わかり次第教えてくれるみたいだ。
何でも問い合わせしてみるもんだな。

その時はそんなくらいにしか考えていなかった。


そして一週間後に突然届いた郵便物。

開けてみて驚いた。






ト、トンネル台帳!? 

中に入っていたのは、第一,第二それぞれの諸元や断面図が書かれたA4サイズの資料。
そして隧道も記載された1000分の1の平面図。

なぜ?なぜいきなりこれがうちに届くの?


同封された送り状によると、なんと都市建設課の担当の方は、その後
大分県土木部に問い合わせくれ、話は県の出先機関である別府土木事務所へ。
そして土木事務所にてこの資料が発見されたとのこと。発見…

そんな大掛かりなことになっちゃってたんですか?

「かなり古い資料で昭和初期〜中期のものと思われます」

なるほど図面は既に自動車規格に拡幅後のもので、僕が前頁で推測した
「昭和39年」という年代にも符合する。

「建設当時の資料は見つかりませんでしたが(中略)管理が
行き届いておりませんで申し訳ございません。」

いやいやいやいや、欲しいもの全部入ってますこの封筒。

いいんだろうか…。送料とか送ってないけど…

実は内容が内容だけに、少しでもマトモなメールにしようと
送信時に住所・氏名を記入していたんだが、
まさか文書として送っていただけるとは。

すぐにでも転入届だして納税したい気持ちだ。


※本項に掲載の資料の写真は全て日出町様・大分県土木部様の許可を得ております。


第一平淵隧道の台帳

汚いスキャンで申し訳ないが、しっかりと諸元や実測図が記載されている。
なんたって「号」に「虎」ってのがすごい。
全体に×印が付いているのはおそらく県道改良後に日出町に
移管されたことを示すものだと考えられる。

ワクワクしながら資料を眺めていたら、ふと何かが目に留まった。


第二平淵隧道 断面図

ひ、ひだり…

↓スキャンした大画面でどうぞ。


第二平淵隧道 在りし日の杵築側坑口


これは… 生きている!

間違いなくこれは第二平淵隧道の在りし日の姿だ。
真っ白な路面はおそらく未舗装なのだろう。
前後に道もちゃんとある!撮影日時は不明だが、
全ては生きている!


第二平淵隧道 現在の杵築側坑口

何か僕はすごいものを見てしまったようだ。冗談ではなくマジで全身に鳥肌が立った。

もうこの写真が見れただけでも、全ての目的は達せられた気がした。

正直言って目的を持っての「廃道探索」はここが初めてだった。
初めてでここまでの成果が出せて、ここにこうして発表できた。

初心者としては十分すぎる出来すぎの成果。
各方面の方々に感謝。


丁重に担当の方にお礼のメールを送り、この資料の掲載許可を頂いた。

その時の返信にてまた情報を頂いた。

この地域では昭和51年・57年・平成9年に大雨被害が発生。
特に、旧道移管後すぐの昭和51年に一部で土砂崩落が発生し、
車両通行は困難な状態になりそのまま年月が過ぎたのとのこと。
聞き取り調査までして頂いてありがとうございます。

そして近年の測量調査で第一隧道の落盤等を発見し、
あわてて通行止め処置を行ったとのこと。

適当な看板が無かったんでとりあえずこれをもってきたそうな。
緊急工事の予定は現在のところ…(以下略)

とにかく仮説は間違っていなかった。

しかし昭和51年…



この落書きが書かれた数ヵ月後にはこの道は通行不能になったのか…


と言うことで、多くの人の力を借りながらも手探りで集めた情報で
初心者がジグソーパズルを組み立てていくように最後を締めよう。


旧県道藤原杵築線史(総力限界版)
明治36年(1903)以前 八坂川沿いに県道(の原型)および第一,第二平淵隧道完成。
元々、杵築から大分方面に向かう街道があったようだ。
明治44年(1911年) 対岸に国鉄日豊本線(当時:豊州本線)開通
昭和中期
自動車規格に拡幅工事
ほき橋の名板にあった「昭和39年」の可能性大。
(頂いた平面図上に記載されている、ほき橋の幅員と、両隧道、
明かり区間の幅員がほぼ一致しているため)
第二平淵隧道改修(上記拡幅工事と同時の可能性大)
昭和46年(1971年) 道路改良事業で、現在の県道藤原杵築線が完成。
旧道杵築側は市道生桑線に、
日出側は町道平淵線にそれぞれ移管(生桑-赤松間)。
昭和51年(1976年) 豪雨災害にて一部で土砂崩落が発生。車両通行困難に。
そのまま通る人も無く、30年間土砂崩れ、廃道化は放置。
いつしか地図からも消滅。

ここまで分れば、もう僕としては十分。

廃道を掻き分けたどり着いた二つの隧道。
100年の歳月を越えたその姿に極限まで近づけた。

いい探索だった。





あとがき

資料の掲載許可を得るため、僕はこのサイトのURLをメールに載せ、
「見て頂いて可否の判断をお願いします」とお願いした。
「当サイトはむやみに危険な旧道の探索を推奨するものではありません。」
とも付け加えておいた。いや、実際そうですよ?w

結果は「おっけー」だったのだが、返信には
「都市建設課内の職員や大分県の担当官にも紹介しました。」

なにやらイタズラしてたのが親にみつかっちゃったような気分だが、
どうやら気に入っていただけた(?)ようだ…
よし!大分県のお墨付きを頂いたぞw


「また、カラーコーンを運んだ職員も笑いながら拝見しておりました。」

あんまり変なこと書くのやめようw
ホントすみませんです(^_^;)


今回の探索・調査にご協力いただいた、
・杵築市役所建設課 様
   ・日出町役場都市建設課 様
・大分県土木部 様   
・別府土木事務所 様 
(掲載順)
本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。
今後ともよろしくお願いいたします。

結構高い確率で「またお世話になります。」




平淵隧道探索調査、全て完了


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