特設ステージNo.2
第一,第二平淵隧道
地図から消えた平淵隧道 その5
■地図から消えた日■
今回持参したのは昭和26年の地形図。
そこには現在の県道は無く、あの完全な廃道が二つの隧道を伴って描かれている。
現時点で情報はコレのみ。
あの道路と隧道はいつ見捨てられたのか?
まずは詳しい地形図を得るため、僕は時計を見ながら杵築市役所へと向かった。
あまり知られていないが、各自治体の市町村役場では詳しい地図を買うことが出来る。
さらに「土木課・建設課」に行けばさらに縮尺の大きい(1/5000とか)地図を
見せてもらえ、複写もしてくれる。「森林基本図」「国土基本図」と覚えておこう。
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現在午後4時20分。確か市役所は5時に閉まるはずだ。
僕はひたすら車を走らせた。
この時点で大きな間違いを犯しているとは気がつかず。
今日は1月4日。役所は「御用始め」である。
正月休みも明けて初日。だるいけど、それももうすぐ終わりの時間だ。
「さて、かえって新年会だ〜。」
そんなところに息を切らして現れ、「地図見せてください」などと言う男ひとり。
「どこの分ですか?」
どう考えても迷惑であろう終業30分前の珍客に嫌な顔一つ見せず
笑顔で対応してくれる建設課の若い兄さん。
「えっと、杵築駅のちょっと西側。10号合流のとこら辺を」
というと、彼は書庫から大縮尺の地図を持ってきてくれた。
バサっと開いてみる。
僕「あ。」
兄さん「え?」
イメージ図
トンネルとか道とか言う前に、地図が無い。
そうなんである。自分でもスペックの欄に書いてあるが、
隧道の所在地は速見郡日出町。
自治体の地図には自治体の範囲しか描いていない。
つまり僕は日出町役場に行くべきだったのだ。
初歩的ミス。付き合ってもらった兄さんごめん。
しかし、何か収穫を持って帰らねば…。
と、兄さんが住宅地図を片手に持っている。
聞けば道路台帳代わりに使っているとのこと。
見せていただくと、旧県道藤原杵築線に該当する道路には
「市道生桑線」と手書きで書かれている。
哀れ、県道から市道に降格になっていた。
国道から県道への降格は聞いたことあるが、これは初めてだった。
ってか、市境から向こうはなんて名前なんだろ。
とりあえず、「市道生桑線になった」という情報のみを入手。
そして、僕は受付のお姉さんに、「図書館どこっすか?」と道を聞き、
杵築市立図書館へと走った。4時45分到着。
一直線に「郷土」コーナーに行き、「杵築市史」をゲット。
すぐさま広げて、「産業・交通」欄を探す。
『昭和46年には県道藤原杵築線の生桑−赤松間の直線化工事が完了し…』
あった!コレだ!
お姉さん「すみませ〜ん。閉館になりますので。」
僕「あ、はい…」
最終的に得ることが出来たあの道に関する情報は以下の通りだ・
・昭和46年に新道付け替え
・現在は市道生桑線
以上!
今回は時間もなく、現地で聞き取り調査を行っていない。
コレだけの情報で、あの道の歴史を語れというのは、
国語辞典片手に魏志倭人伝の解読をしろというようなものだ。。
情報が無さ過ぎる。
しかし、実は僕はある有力な情報を得ていた。
しかも、あの第二平淵隧道の中で。
その情報とは!
マル秘情報その1
合い合い傘である。
間違いなく昭和の文化だ。
こんなん描くのは昭和の小学生以外にいない。
マル秘情報その2
そこには確かに「S51.5.3」の文字が。
つまり昭和51年の憲法記念日、僕が生後3ヶ月でまだ首も座ってないこの日に
誰かがここで落書きをしたのだ。
前述の合い合い傘とあわせて考えると、中学生くらいまでの
少年少女がここを通っていたと考えられる。
つまり「道は生きていた」
いい大人が↓を通ってここまで来て「合い合い傘を描いた」とは考えにくい。
もちろん小学生にはきつい道だ
そして少し遅れて届いた、明治36年測量地形図「杵築」。
この地形図では、まだ国鉄が走っていないものの、あの道、あの隧道が
描かれている。つまり、完成はそれ以前。かなり古いな。
明治36年測量 大日本帝国陸地測量部発行五万分の一地形図「杵築」
出来る限り集めた、決して多くは無い情報を元に出来る限り考察してみた。
旧県道藤原杵築線史(超概略版)
明治36年(1903)以前 |
八坂川沿いに県道(の原型)および第一,第二平淵隧道完成。
元々、杵築から大分方面に向かう街道があったようだ。 |
明治44年(1911年) |
対岸に国鉄日豊本線(当時:豊州本線)開通 |
?
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自動車規格に拡幅工事
ほき橋の名板にあった「昭和39年」の可能性あり? |
?
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第二平淵隧道改修(上記拡幅工事と同時か?) |
昭和46年(1971) |
道路改良事業で、現在の県道藤原杵築線が完成。
旧道は市道生桑線に降格(生桑-赤松間)。 |
昭和51年以降 |
何かが原因で廃道化 |
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地図から消滅 |
コレが限界。
とりあえず、地図から消えた時期を詳細に知ろうと思えば、地形図バックナンバー
全部買う必要があって… ねえw 1枚500円するし…
ただ、アレだけの区間の廃道化が徐々に進んだとは考えにくい。
というのも、いくら旧道とはいえ市道。
少々の崖崩れならばそのつど復旧されるはずだからである。
つまり、考えられるのは、長いスパンではなく、短い点。
ある時「大規模な災害」が起こり、八坂川左岸において崖崩れが多発。
復旧に手がつけられず、暫定的に通行止めだったのが、
そのまま放置されて今に至る。
というシナリオ。
ちなみに昭和51年以降の災害史については追って調査するので、
このレポートは今回で「暫定完了」。
覚えている大災害
・平成2年 豪雨災害
・平成3年 台風17号,19号
これ以外の情報をこの道を行けば→は募集しています。
「っていうか、素直に現地で聞けばよかったじゃん」
ってのは無しね。
レポ(暫定)完了
本当の完結編へ→
スキヤキは美味しかった。
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