再訪!浜ノ上隧道その4
■浜ノ上隧道について■



この隧道が完成したのは資料によれば1921年、大正10年のことである。
当時国東半島において、現在の国東市国見町だけが沿岸を縦貫する道路が開通しておらず、
人々や車両(馬車)は海岸から2kmほど離れた山道を利用していた。
この山道こそが江戸街道である「大分往還」であると考えられているのだが、
目下情報収集中のためその話はまたいつか。

とにかく僕の先祖はずいぶん不便なところに住んでいた。


明治35年 大日本帝国陸地測量部発行五万分の一地形図「鶴川」

その後交通の発達により、もともと浦辺(うらべ)と呼ばれた海岸沿いの多くの集落を
カバーするように新たな道路が整備され、現在の宇佐市から速見郡日出(ひじ)町までの海岸線が
一本の道路で繋がった。現在の国道213号線の原型の完成である。
現在国見町に存在するトンネルの多くがこの時期に産声を上げている。


昭和26年 地理調査所発行五万分の一地形図「鶴川」


■聞き取り調査■

では、現役当時はこの隧道はどんな様子だったのか。
そしていつごろその役目を終え廃止されたのか。

地元に住む当時を知る初老の男性に話を聞くことができた。


うちの親父だが。


正月に1年ぶりに息子が帰ってきてくるや突然、
「上のトンネルやけどさあ」
などとおっぱじめ、コタツの上に明治時代の地図を広げる。
一般的な日本の正月の風景とは若干違う。


「今度は何始めたんだ?
何にでもとりあえず興味を持ち、勉強以外ならパラノイアとも言えるほどの
集中力を発揮する自分の息子の性質を知り抜いている。


ともあれ貴重な(?)証言を得た。

・現役当時から坑内に電灯は無かった。
・バスもちゃんと通っていた。
・昭和30年代初頭にはすでに一回内迫側坑口が台風の際崩落している。


インパクト弱な情報といった感は否めない。
もっとこう、
「天皇陛下がお通りになりトンネルの名前を決められた」
とか
「蒙古軍が攻めてきた際、このトンネルの攻略に手惑い撤退した」
とかイカすエピソードはないものか。


で、本題(?)の廃止時期は?

「うーん、そうやのう。あれはオレが○○(隣に住む僕の従兄)をおんぶして掘割り(現道)の
工事をみちょったから…多分昭和40年かその辺じゃ」

えてして古老の証言はこういった「○○してたときだから…」と自分の経験に置き換えるものが
多いから時期があいまいである。

昭和42年発行のトンネルリストには載っていないので概ね合ってるのだろう。

ちなみに親父はこのとき初めて「ブルトーザー」を見たとのこと。
その4年後に人類は月に立ってんだぜ?


とりあえずわかった。
浜ノ上隧道はその役目を終えて今年2008年で42年(か、その辺)が経過していた。

ちなみに完成したのが正確に1921年なら、僕のじーさんは当時15歳。
時代背景や、当時の公共事業は地元民みんなで行っていたことを考えると、
けっこうな確率で彼はこの隧道工事に従事したんじゃないかと考えられる。
確かめるすべはもう無いが。

45年近く現役を勤め、さらに同じくらいの時間
誰を通すでもなくたたずんでいた25年ぶりの廃隧道。
おそらく近い将来坑口は潰れてしまうだろう。

でも


祖父が造り(仮定)  父が通った

僕は語り継ごう


僕が一番最初のレポートに選んだ理由だ。原点ここに。

レポ完了


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